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大河ドラマ「青天を衝け」のモデル・渋沢栄一の功績と活動実績

2021年放送のNHK大河ドラマ「青天を衝け」のモデルとなったのは、「日本資本主義の父」と称され、新一万円札の顔としても注目を浴びている渋沢栄一。

 

ドラマは、主人公の渋沢栄一が、幕末から明治へかけて、時代の大渦に翻弄され挫折を繰り返しながらも、青天を衝くかのように高い志を持ちながら未来を切り開く物語。

信念のため、たとえ形を変えてでも逆境を乗り越えていく渋沢のエネルギッシュな生きざまが描かれる。

タイトルの「青天を衝け」は、若き栄一が藍玉を売るため信州に旅したとき、険しい内山峡で詠んだ漢詩の一節「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」からきている。

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「青天を衝け」あらすじ

官尊民卑の世は、承服できん! 百姓からの脱却を決意。

天保11年(1840)、武蔵国・血洗島村。藍玉づくりと養蚕を営む百姓の家に、栄一は生まれた。

おしゃべりで物おじしないやんちゃ坊主は、父・市郎右衛門の背中に学び、商売のおもしろさに目覚めていく。

 

ある日、御用金を取り立てる代官に刃向かったことで、理不尽に罵倒された栄一は、官尊民卑がはびこる身分制度に怒りを覚え、決意する。

「虐げられる百姓のままでは終われない。武士になる!」。

 

目指せ、攘夷の志士! ところが計画中止、追われる身へ。

千代と結婚した栄一は、従兄の惇忠や喜作と共に、尊王攘夷に傾倒していく。

江戸で仲間を集め、横浜の外国人居留地を焼き討ちする攘夷計画を企てた。

しかし、京の情勢に通じた従兄の長七郎の猛反対にあい、あえなく断念。

逆に幕府に追われる立場となり、喜作と共に京へ逃げる。

 

彼らに助け船を出したのは、一橋慶喜の側近・平岡円四郎だ。

幕府に捕らわれて死ぬか、一橋の家臣となるか。

「生き延びればいつか志を貫ける」。この選択が、栄一の運命を変えていく。

 

心ならずも幕臣に。パリ行きが人生を開く!

栄一は一橋家の財政改革に手腕を発揮し、慶喜の信頼を得る。

ところが、慶喜が将軍となり、倒幕を目指すどころか幕臣になってしまった。

失意の栄一に、転機が訪れる。

パリ万国博覧会の随員に選ばれたのだ。

慶喜の弟・昭武とパリに渡った栄一は、株式会社とバンクの仕組みを知り、官と民が平等なだけでなく、民間が力を発揮する社会に衝撃を受けた。

そんな折、日本から大政奉還の知らせが届き、無念の帰国へ。

 

まさかの新政府入りで、続々改革。そして民間へ

帰国後、様変わりした日本に衝撃を受けた。

静岡で隠棲する慶喜と再会した栄一は、身をやつした姿に涙し、慶喜を支えることを決意する。

しかし突然、明治新政府から大蔵省への仕官を命じられて上京。

 

「改正掛」を立ち上げ、租税・鉄道・貨幣制度など次々と改革を推し進めること3年半。

栄一はある決意を胸に辞表を提出した。

この時、33歳。いよいよ、栄一の目指す民間改革が始まる!

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渋沢栄一は、明治維新で経済の発展に寄与した

渋沢栄一は、埼玉県の農家出身でしたが、海外への渡航経験を経て大蔵省の役人となります。

そして、「第一国立銀行」と呼ばれる日本で最初の銀行づくりに携わり、その銀行の頭取となる。

第一国立銀行以外にも、現在の三井住友銀行や地方銀行の設立にも関わり、さらに、多くの有名企業の創立にも貢献しているのです。

 

例えば鉄道会社だと、日本鉄道(現JR東日本)や秩父鉄道、京阪電気鉄道などの現在でも有名な企業の設立に携わっている。

さらに日本郵船の前身である共同運輸会社、田園調布と呼ばれる高級住宅街を造り上げた田園都市株式会社にも関わり、日本経済の発展に寄与した人なのです。

 

渋沢栄一の生涯

1840年3月16日 武蔵国榛沢郡血洗島村 (現:埼玉県深谷市血洗島村) 生誕

1931年11月11日 没(享年92歳)

妻 渋沢千代

父 渋沢市郎右衛門元助

母 エイ

 

実家は養蚕や米・野菜の生産から藍の葉から作られる染料の販売まで幅広く営む裕福な農家で、渋沢も小さな頃から仕事を手伝っていた。

19歳で学問の師であった尾高惇忠の妹・千代と結婚し、22歳で江戸に出て儒学者・海保漁村のもとで学び始める。

24歳で京都に出て一橋(徳川)慶喜の家臣となり、彼の警護に当たったり海外渡航を経験する。

1868年、大政奉還が起こり明治政府が樹立すると、大隈重信に経験を買われ大蔵省に入省し、官僚として近代日本の経済に携わる。

 

4年後、34歳で大蔵省を退官すると、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の頭取となります。

株式会社の創設・育成に力を入れ、500以上もの企業の創立に携わる。

また、大学など教育機関の創設や社会事業にも関わり、日本赤十字社の設立にも注力しました。

渋沢が関わった社会事業は600にのぼるといわれています。

日本を豊かな国にするために、没頭した人物だったのです。

 

起業家・渋沢栄一

起業家であり「近代日本経済の父」といわれる渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の農家の出身です。

幼いころは家業である藍玉の製造・販売・養蚕を手伝っていた。

しかし彼の実家は、農家といっても当時しては比較的大きな農家でした。

父親から学問を習い、7歳になると尾高惇忠という論語学者のもとへ本格的な学問を習いに行けるほどの裕福な状況ではあったのです。

 

しかし、一般の農民から日本の経済を代表する人物に成りあがったのは、やはり渋沢の努力の大変さが伺えます。

幼少期の渋沢も、学問をしながら父と共に信州や上州へ赴いて藍を売り歩いていたといいます。

14歳の頃には独り立ちをし、単身で藍葉の仕入れに出かけるようになったそうです。

このころから実業家としての素質がうかがえます。

 

開国に反対だった時期もあった

渋沢栄一は江戸時代生まれですが、尾高惇忠の思想や様々な学問を習った結果として「尊皇攘夷論」を論じるようになる。

天皇の権威を第一とし、開国を迫る外国人を排斥する尊皇攘夷論は、当時でも比較的過激な思想だったのです。

そして、その思想から、渋沢は討幕のために「高崎城を乗っ取る」という計画を企てたこともありました。

現在の群馬県にある高崎城で武器を調達し、横浜の異人館を襲撃しようとしたようですが、あまりに過激な考えであったために尊王攘夷論者からも非難を浴びたそうです。

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『論語と算盤』

渋沢栄一が活躍していた明治時代、「商売に学問は必要ない」とする考え方が一般的でした。

渋沢は、これからの時代の商売には学問が必要だ、会社経営を成功させるためには経営者自身が人間として守るべき規範・基準をもっていなければならないと考えて、孔子の「論語」を自分の行動規範にしたのです。

 

「論語」では、自分の在り方を正し、日常生活で人と関わるときに役立つ教えが説かれています。

豊かになるためには「正しい方法」をとらなければならないと説かれています。

「正しい方法をとること」が「豊かさへの道」だと説く学問なのです。

 

渋沢栄一は、会社の利益を追求することと、人としての道徳を重んじることのバランスがとれてこそ健全な社会であると考えました。

そのような思想を説いたのが「道徳経済合一説」であり、渋沢の著書『論語と算盤』です。

 

みんなが豊かになること

渋沢栄一は、なぜ500もの企業を次々と設立していったのでしょうか?

それは、当時必要とされていたモノやサービスを社会に提供して、日本の「国力」を高めるためです。

自分だけではなく、みんなで豊かになろうとしたのが渋沢の偉大なところです。

そのために渋沢は「論語」に裏打ちされた道徳観で資本主義経済を発展させようとしたのです。

 

著書『論語と算盤』では、「道徳に基づいた利益を追究すること」「自分よりも他人を優先し、社会の利益を1番に考えること」を論じています。

渋沢は、武士の仁義を重んじ商売の才能に秀でた人でした。

 

子孫も会社経営を継承している

渋沢栄一は、正妻である千代との子の他にも何人もの子女がいました。

もちろん嫡出子は渋沢一族の名誉に関わる者ですから、長女の歌子・二女の琴子はそれぞれ法学者の穂積陳重、大蔵大臣の阪谷芳郎に嫁いでいます。

三女愛子は澁澤倉庫の会長や第一銀行頭取を務めた明石照男と結婚しました。

 

また、長男篤二は伯爵である橋本実梁の娘・敦子を妻に持ち、澁澤倉庫の会長を務めました。

ちなみに彼は長男ですが、家督は継ぐことができませんでした。

これには諸説ありますが、実業家というより芸術肌であったために、廃嫡としたとの説が濃厚です。

 

長男以外にも二男・武之助は石川島飛行機製作所の2代目社長、三男・正雄は石川島飛行機製作所初代社長、四男秀雄は東京宝塚劇場会長や東宝取締役会長を務めました。

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渋沢栄一の功績

大蔵官僚としての功績

渋沢栄一は帰国後すぐに静岡に商法会所という金融商社を設立しますが、大隈重信に海外渡航の経験を買われ、大蔵省に入省することとなりました。

大蔵省といえば、現在の財務省。

財政を管理する国家機関に大隈重信という偉人の推薦で入省したのです。

彼はここで民部省改正掛を率いて改革案の企画や立案をしたり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に尽力しました。

大蔵官僚としても、近代日本経済の礎を造り上げたのです。

 

実業家として500もの企業の設立に携わった

みずほ銀行の設立など、渋沢栄一の功績はここにあります。

500もの企業の設立に携わった実業家は日本を超えて世界に目を向けても彼しかいません。

渋沢が近代日本経済の父と呼ばれる理由の1つです。

しかもその設立した企業が、今でも有名な企業というのがすばらしい。

 

現在のみずほ銀行や東京海上日動火災保険、日本製紙、東急、帝国ホテル、東京証券取引所、サッポロホールディングス、キリンホールディングスなど。

業種もさまざまで、渋沢の経営理念が幅広い職種に通用するものだったと分かります。

 

大学の設立や教育事業にも貢献した

渋沢栄一は企業の設立だけでなく、大学の創設や教育事業にも大きな貢献をしている。

一橋大学の創立。

創立当時は商法講習所と呼ばれ、実業界で活躍する人材を要請するための日本初の教育機関でした。

また、現在の日本女子大学の前身である日本女子大学校の設立にも貢献し、校長も務めました。

大学の設立以外にも社会事業にも貢献し、彼が生涯で関わった教育・社会事業の数は600以上にもなるそうです。

 

討幕計画を目論む

北辰一刀流の道場に入門してから、渋沢は勤皇浪士たちと深く関わることで徐々に尊皇攘夷の思想に目覚めていきます。

それが爆発したのが1863年。

彼は高崎城を乗っ取って武器を奪い、長州と連携して幕府を倒すという過激な計画を立てます。

しかし、尾高惇忠の弟・長七郎の懸命な説得により計画は中止となりました。

当時、渋沢はかなり過激な思想をもっていたようです。

 

渋沢栄一が一万円札の顔になる

そのような活躍が評価され、歴史に名を残す偉人となった渋沢栄一ですが、2024年度から「1万円札の顔」となることが発表されました。

1984年に聖徳太子から福沢諭吉になって以来、40年ぶりの変更です。

経済において必要不可欠な1万円札。

普段使っている我々日本人としては、彼の功績を知っておきたいものです。

渋沢栄一の魅力と考え方が学べると、今後の生き方に役立つかもしれません。

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